2008年01月16日
箱根のお城
小田原城です!
小田原城(おだわらじょう)は、神奈川県小田原市にある、戦国時代から江戸時代にかけての平山城跡で、江戸時代には小田原藩の藩庁があった。国指定史跡。
北条氏は、居館を現在の天守の周辺に置き、後背にあたる八幡山を詰め城としていた。大森氏も、そうであったと推測されている。三代目の北条氏康の時代には、上杉謙信、武田信玄の攻撃を退け、戦国時代屈指の堅城ぶりを誇った。北条氏の時代に、小田原城は、八幡山から海側に至るまで小田原の町全体を総延長9kmの土塁と空堀で取り囲んだ惣構え(これは後の豊臣氏大坂城の惣構えよりも広大である)をもつ、それまで類を見ない大規模な城郭へと拡張された。
慶長19年(1614年)、徳川家康は自ら数万の軍勢を率いて、小田原城惣構えを破壊させている。地方の城郭にこのような大規模な惣構えがあることを警戒していたという説もある。
現在の小田原城址の主郭部分は、大久保氏時代に造営されたものである。江戸末期には、海岸に3基の砲台が建設されている。関東にしては珍しく、主要部が全て石垣で固められた総石垣造りの城であるが、現在のような総石垣の城になったのは寛永9年(1632年)から始められた大改修の後のことである。二代藩主大久保忠隣の時代、政争に敗れ改易の憂き目にあっている。一時は二代将軍徳川秀忠が大御所として隠居する城とする考えもあったといわれるが、実現しなかった。
その後、城代が置かれた時期もあったが、阿部氏、春日局の血を引く稲葉氏、そして御家再興がなった大久保氏が返り咲いた。小田原藩は入り鉄砲出女といわれた箱根の関所を幕府から預かる立場であった。なお、大名となった支藩(分家)に荻野山中藩・陣屋(現在の神奈川県厚木市)がある。また、小田原城は江戸時代を通して寛永10年(1633年)と元禄16年(1703年)の2度も大地震に見舞われて、甚大な被害をこうむっている。中でも、元禄の地震の被害は甚大で天守・櫓などが倒壊するほどで、天守が再建されたのは宝永3年(1706年)で、この再建天守が明治に解体されるまで存続したものである。
本丸を中心に、東に二の丸および三の丸を重ね、本丸西側に屏風岩曲輪、南に小峯曲輪、北に御蔵米曲輪を設け、四方の守りを固める構造となっていた。この他、小峯曲輪と二の丸の間に鷹部曲輪、二の丸南側にお茶壺曲輪および馬屋曲輪、二の丸北側に弁才天曲輪と、計四つの小曲輪が設けられ、馬出し曲輪として機能した。建造物としては、本丸に天守閣および桝形の常磐木門、二の丸には居館、銅門、平櫓がぞれぞれ設けられ、小田原城全体では、城門が13棟程、櫓が8基程建てられていたものと考えられている。
上述の構造は近世小田原城のものであり、中世小田原城では、本丸を現在小田原高校のある八幡山上に置き、現在の本丸付近には居館が構えられていた。外郭は最高所となるお鐘の台を取り込み、総延長9kmにも及ぶ広大な規模を有した。
(以上、ウィキペディアより引用)
結構大きいお城でした!
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